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2016年度夏合宿4日目

U田班
青森駅からバスで八甲田山を登り、その先にあった茶屋で休憩した。最近リリースされた人気ゲーム、ポケモンGOを活用して集客に努めていた。
ロープウェイで頂上へ行くと青森市内や白神山地を一望でき、壮観だった。ハイキングで湿原を歩き、植物虫、天然記念物を見てからロープウェイで下りた。予定ではバスに間に合わず、歩いて下山するはずだったのが実際は間に合ってしまったのでバスで青森駅へ。
そこから三内丸山公園に行った。公園内には小学生が作ったレプリカがあり、一部に針金が使われていた。1年に1個だけ作られるのだが、その分以前に作られたものがたまに土に還っているようだ。三内ミュージアムでは骨や栗や土器が展示してあり、縄文人の精巧な人形が置いてあった。
火起こし器が落ちていたので火起こしを試みたが煙しかでなかった。
時間が余ったのでねぶたの家へいき、ねぶたの歴史、展示を見た。有名なねぶた職人の作った実物を展示していた。
八甲田丸記念館も近くにあったのでいった。展示物に見覚えがあったが、その3割が船の科学館にあったもののようだ。連絡船だからか、戦艦などと は違ってエンジン部分が見れた
ホテル到着1820。

K藤班
青森からバスでで三内丸山遺跡に行った。遺跡公園内には近代的な博物館があったので軽く博物館を見た後、青森駅から弘前へ向かった。
バスで弘前城に行くと天守閣移動中による石垣工事が行われていた。 天守の中は移動時の資料ばかりで、弘前城の説明は殆んどなかった。櫓を見ながら後にしようとすると、櫓のうちひとつは花火で焼失したとかかれていた。
次に、江戸時代から残っていて国の重要文化財指定されている石場家住宅を見た。現在も酒店として営業に使用されており、住宅スペースも一部が公開されていた。その中には水質汚染で埋められた井戸もあった。
太鼓体験 ねぷた祭りの県か 昔は喧嘩で斬りあっていて、法律で禁止されるまで続いていたという。三味線を聞きながら後に
その後洋館巡りをし、旧弘前市図書館や旧東奥義塾外人教師館、青森銀行記念館を回った。
旧弘前市立図書館は古書が多く入っていた。旧東奥義塾外人教師館は1階がカフェで2階が展示になっていた。部屋の1つにブランコ部屋があり、驚いた。青森銀行記念館では青森銀行の設立の経緯などを説明していた。
弘前市のプロテスタント協会に行く途中、子供ねぷたを見学した。優しいものだと思っていたが結構十分迫力があった。
プロテスタント協会は東北最初のプロテスタント協会なのだが、2階に重量制限があった。
その後バスで弘前駅へ向かい、ホテルに帰った。
ホテル到着1820。

K島班
弘前駅からバスで弘前公園へ行くと地元の方が方言を使っていて感動した。
公園内の博物館展示はまだ開館時間でなかったのであとまわしにし、先に弘前城を見た。弘前城内では城よりもその移動についてがクローズアップされていた。
博物館に行こうとしたが出口を間違え、青森県護国神社についてしまったので参拝した。神社では戊辰戦争の英霊を奉っていた。
弘前市のカトリック教会に行くとカップルがいて、とても気まずかった。中には日本画風の聖母マリア像や床には畳が敷かれていた。
青森銀行記念館には受付と警備員以外に人がいなかった。1階には創設の流れや貨幣について解説されていた。2階にいくと展示はなく、天井に金唐革紙が施されていた。当時のまま残っていものは非常に珍しいという。
旧弘前市図書館では女性ばかりでまたまた気まずかったが多くの古書があった。
旧市役所の焼けた跡を見ながら旧東奥義塾外人教師館に行った。始め、1階がカフェであることに気づかなかった。ブランコ部屋が印象的だった。
弘前市立郷土文学館では青森出身の文豪についての展示をしていた。福士幸次郎の展示ではなぜか開成をディスっていた。また、福士幸次郎は奥さんが亡くなった悲しみを文集で表していたことがわかった。
行きそびれた弘前私立博物館に行き、弘前城の歴史などを見た。
30の寺がある禅林街を歩きながら駅に戻った。
ホテル到着1820。

T田班
野辺地で乗り換え、下北から800円かかるバスで恐山へいった。恐山は全体的に硫黄の臭いがした。正門からはいり、本堂に行くと加波山神社の白装束を着たあからさまに怪しい団体がいた。理由を尋ねてもはぐらかされたので明らかに怪しかった。
本堂と奥の院の不動明王をお参りしたのち、地獄巡りをした。
無間地獄や血の池地獄、重罪地獄などがあり、それぞれがガスや温泉の噴出孔になっていた。
途中、東日本震災の慰霊塔と三途の川のメタファーであろう湖を見た。
恐山で昼食を摂った後、大湊へ向かった。バスは出ていたがなぜか水源池公園まで歩くことになった。
途中の道に兵主神社と正一位稲荷神社があった。兵主神社は明治22年に作られており、軍隊と関連があるのか調べたら兵庫(つわものぐら)の鎮守社であるうようだった。
正一位稲荷神社の狐は伏見稲荷大社と同様、鍵と珠をくわえていた。
水源池公園は旧海軍の軍港に真水を運ぶための水門だったりの跡で、近くにあった海望館で眺めを一望してから北の防人大湊へいった。壱番館と弐番館があり、どちらも旧海軍兵の宿舎だったようだが壱番館は廃墟ぎみで弐番館のみ解放していた。
その後大湊基地の資料館である北洋館を見学した。展示物は1000点以上あり、その中には戦艦三笠の甲板もあった。海自のビデオを見せてもらったが説明に龍馬が出て来、賛否両論あった。
ちょうどこの日、日米合同の掃海訓練を行っていて、港にはうらが、おおよど、はちじょう、さみだれ、まきなみが停泊していた。
ホテル到着1840。

T班
河辺乗り換えで五所川原へいった。まず、立ちねぷた3体 4階ぶち抜き でかい立佞武多の館では立ちねぷた3体を展示していて、4階の高さの吹き抜けを占拠していた。
ねぷたは、道幅が狭いために上に延ばしてでかくしたもので、電線のせいで縮小したが、80周年をきねんに復活したそうだ。
囃子の実演や美術ギャラリー、製作所などの展示を見、駅に戻った。
津軽鉄道で金木へ行くと駅員が乗客一人一人に行き先を訊いてパンフレットを配るというサービスを行っていた。
金木町津軽三味線会館では金木が発祥地である津軽三味線の展示をしていた。津軽三味線は三味線に打楽器要素や早引きを加えたもので、そのルーツは北陸にあるという。津軽三味線の実演を聴き、それで終わりかと思いきや北海道の民謡を弾き出した。弾き語りが終わったので展示コーナーを見てから斜陽館に向かった。
斜陽館は大地主であった太宰治の父が建てたもので、和洋折衷の不思議な建物だった。周囲には小作争議から家を守るためにレンガのバリケードや交番が作られていたという。この家は東京大空襲の際に太宰治が疎開した家だったが太宰の死後売却され、記念館として営業されている。
駅まで戻り、ホテルに帰った。
ホテル到着1820。
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