夏旅行5日目

小川班
5日目は四時四十分に岡山へ集合して新幹線にのるということだったので初日に回れなかった倉敷の美観地区に再び舞い戻った。倉敷では大原美術館へ行き受胎告知や近代芸術、陶器などを見たが自分はどうも近代芸術を見る目がないようでどの絵もなにを表したいのかわからなかった。しかし受胎告知の滲み出る神々しさを味わうことができたためとても満足いった。ついでに二つほど博物館と工芸館をまわる予定だったが班員にひとりグロッキー状態のものがいたため、早めに切り上げ岡山土産を買う時間をとり新幹線へ乗り込み品川駅で解散することで5日目の行動を終えた。

川崎班
昨日の愚かな失態が頭の片隅にあり、また今日は東京へ新幹線を使って戻らなければならない日でもあるので、集合に遅れることはあってはならないと考えた私は、岡山駅から近い倉敷に行くことにした。はじめに見に行ったのは、地元の実業家の経済的な援助を受けた、日本人の洋画家がヨーロッパを旅して蒐集した、絵画や美術品のコレクションを展示する大原美術館で、蒐集を行った児島虎次郎の審美眼は確かなものだったといわれている。美術館の蒐集品のなかではエル・グレコの受胎告知が最も価値が高い作品だとされているけれど、気に入ったのはイタリアの画家、ジョヴァンニ・セガンティーニが制作したアルプスの真昼という作品で、山羊の群のそばで、斜めに生える白樺に腰をかける、淡い青紫色のディアンドルのような民族衣装に身を包んだ女性が、遠くにはアルプス山脈が、透明な空気感をもって描かれていて、鮮やかな黄、青、白が私を捉えた。ここで女性の衣装をディアンドルのようだと描写したが、そもそもディアンドルはアルプスの民族衣装から派生した装束であるので、あまくだりしたような表現だといえるかもしれない。美術館の展示を一通り見終わって、昼食をとり、観光用に完璧に整備された、いささか清潔すぎる美観地区を彷徨っていると、紡績工場を見つけたので、富岡製糸場に興味を抱きつつも、訪れられずにいた私は思わず見学してみることにした。そのあとアンリ・マティスの木炭画がどうしても気になってしまっていたので、再び美術館を訪れることにした。収蔵品を纏めた図録にあった、ムンクのマドンナがしまいこまれていて見られなかったのは心残りであったが、一応満足し、美術館の創立者のアイデアで開かれることになったカフェ・エル・グレコでコーヒーとチーズ・ケーキを食べて、岡山駅に戻った。

岸本班
津山。
津山へ向かい、津山の鉄道学び館へ。津山の鉄道とともに変遷した姿を体感し、また鉄道制度の変遷も見た。その後うどんを食して、津山城、聚楽園を見て岡山へ行き、新幹線乗車。今に至る。


松浦班
電車で高松へ。シンボルタワー一階でお土産を買ってから、玉藻公園に向かい、高松城の現存櫓(とても立派)や天守台(天守復元を目指して頑張っているらしい)、披雲閣(近代和風建築)を眺めた。ここに限らず、高松港周辺では海風が常に吹いており、真夏でも日陰ならかなり涼しい。一通り回ったら隣の香川県立ミュージアムに行き、香川県の歴史を学んで、うどんを食べてからことでんの高松築港駅に向かった。「ことでん温泉入浴乗車券」なる、団扇としても使えるきっぷ兼入浴券兼タオル引換券を購入し、電車に揺られてから、炎天下を歩いて仏生山温泉に入った。ぬるぬるした泉質と現代的な建築が非日常を演出する中、時間の都合で烏のごときスピーディーな行水をし、電車で岡山へ戻った。

夏旅行4日目

小川班
4日目は広島の基町を徒歩で探索した。朝遅くに宿を出てまず記念公園へ行き資料館をみた。資料館は少し前に新しくなったというので言ってみたが前回までと比べあまり良くなったという印象は受けなかった。資料館を出て原爆ドーム前をかすめて広島城へ行き観光したあと縮景園で一休みをした。縮景園の美術館では水木しげるの展示をしていたが見ることはなかった。縮景園の後は旧日銀広島支店を班員の希望を受けて見学し宿へ向かった。宿に着き4日目の行動を終えた

増田班
4日目は生口島という島全体が美術館のようになっているところにフェリーで向かった。
まず平山郁夫の美術館に向かった。
そこでは平山郁夫が旅をしていた、彼の生涯についての解説と、主にシルクロードの面している辺りの絵が展示されていた。
その次に耕三寺という寺に行った。そこでは日光東照宮、法隆寺、清水寺、四天王寺、平等院鳳凰堂、慈照寺(銀閣)をオマージュした建築物があった。また耕三寺には天国と地獄が表現されている人工の洞窟があり、そこはとても不気味な雰囲気でまた、すずしかった。
そのあと時間が余ったので少し移動して尾道に向かい尾道ラーメンをたべ、寺をまわった。

松浦班
電車で福山へ向かったが、なんやかんやあって到着時には既に一時だった。そこでふくやま草戸千軒ミュージアムの常設展(草戸千軒の実物大模型が見どころ)とふくやま美術館の特別展(ウィリアム・モリスの壁紙は美しい)を見て、昼食をとった結果、予定していた倉紡記念館行きは時間的に不可能になった。仕方ないので倉敷へ行き、美観地区を少し散歩して時間を潰してからホテルへ向かった。

川崎班
すこし早めに、早いといっても数年前の地歴部では散見された宿の朝食が用意される前に出発してしまうような時間帯ではなく、7時30分ごろに広島を出発し、江戸から明治にかけての街並みが保存されている竹原に到着した私達が目にしたのは、閑散としたシャッター商店街だった。昨日訪れた鞆の浦同様、この辺りでも人口減少が著しいことは容易に想像がついた。駅前でそれぞれ別々に行動することにし、商店街を抜け、町並み保存地区に到着したものの、所々に鉄筋コンクリートの近代的なアパートや、煙草の自動販売機が設置されており、遠方からやってきた私たちを失望させた。しかしながら何も見ずに帰ってしまうというのでは、あまりに興醒めしてしまうので、江戸時代に塩田を経営して財を成した人物の邸宅の中に入ってみることにしたが、やはり必要以上に大きな注意書きや、修繕が必要な箇所が多く、竹原への失望をより深めさせただけだった。竹原はこうした有様だったので、予定よりはやく尾道に移動することにした。尾道でも自由行動にしたので、私は一人で1964年に山頂の目立つ位置に築城され、現在は朽ち果てている尾道城の脇を通り過ぎて、千光寺公園で向島と尾道を往来する船を見ながら、追憶に耽って1時間くらい過ごし、展望台を通ってから、弘法大師が開基したといわれる千光寺を見学した。千光寺から市街地に降りていく、山の中腹に位置する三重塔は尾道の観光ポスターにもよく使われているもので、私もその写真の構図に倣って眼下から遠望にかけての風景を見下ろしてみると、まるで空気遠近法のお手本のように遠くの島々がゆるやかな霞に包まれ、こじんまりとうかんでいた。山を降りて、尾道の商店街を少し歩いた後、向島にフェリーで渡り、島内を軽く探検し、また尾道に戻ってきたときに目にした船着場の腰掛けで船を見送り続け、屯ろする島民の高校生達の後ろ姿は、青春を食い物にする学園ものの映画を連想させた。尾道駅に戻った私達は何の疑いもなく電車に乗って、広島へ向かってしまったので、ホテル到着は9時になってしまった。

岸本班
吉備津神社。備中高松城。造山古墳
朝岡山駅に荷物を預けた後吉備津駅へ。備中高松城の史跡、資料館にて、水攻めの真相や状況などを把握。その後ラーメンを食べ、造山古墳へ。日本で4番目に大きいというこの古墳を徒歩で訪れた後、また徒歩で吉備津神社、吉備津彦神社へ。その後ホテルへ。

夏旅行3日目

小川班
3日目は厳島神社へ向かった。平和記念公園にある舟乗り場から舟にのり、宮島へ移動した。宮島では班員のこれこだ君が鹿にお気にいるの服を齧られて穴があくという事故が起きたがなんとか厳島神社の参拝を終え、宝物館と近くにあった平清盛についての資料館を見て回った。その後弥山という山に歩いて登りたい派とロープウェイで登りたい派と登りたくない派で分かれて行動を開始した。私はロープウェイで登ることにしたのだが頂上からみた景色は曇りであったためそこまでの美しさはなかった。徒歩登山組を待つ間に穴子丼を食べ、外国人の兄貴と話をし、フクロウと戯れていた。徒歩登山組が帰ってき次第宿へ向かい3日目の行動を終えた。

川崎班
ホテルから原爆ドームまで歩く途中に降ってきた驟雨は、黒い雨を連想させ、はやくも私を1945年に連れ戻そうとしていた。原爆ドームについて今更何も書くことはないものの、やはり8月6日の惨状を想像すると、暗澹たる心持ちになるのは事実である。ドーム近くの桟橋から観光客相手の、厳島行きの遊覧船に乗って、平清盛が建築させたという厳島神社を参拝しに向かった。厳島で厳島神社と、秀吉が建築を命じ、読経所として使われていた、豊国神社を見学した。宮島は白人のツーリストでごった返していたので長いはせずに遊覧船に乗って、再び原爆ドームから少し歩いたところにある船着場に戻り、広島平和記念資料館と公園、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を訪れた。資料館の展示の前半は、出来る限り客観的な事実のみを記そうとする意図が伝わってきたが、後半では個々の被害者に焦点を当てた内容が多く、被害者意識の過剰な増大が、プロパカンダとしてのアンネ・フランクを連想させた。人々の奇妙な沈黙のためか、あるいは火傷を負った人々のむごたらしい写真のためか、いや74年前の凄惨な出来事をあまりにも鮮明に想像してしまったためだろう、私はその時半ば打ちひしがれてしまっていた。資料館の次に見学した、国立の戦没者を追悼する記念館は、ローマの建築に影響を受けていることが明らかだった。入り口から中央のホールに続く、暗く天井の高い回廊はハドリアヌス帝の墓廟を、その壁にあしらわれた、段になって二重にくり抜かれた装飾と、穹窿の天井に開けられた、日光を導く円形の開口部はパンテノンと容易に結びついた。記念公園を暫くうろついてホテルに徒歩で6時くらいに戻った。

松浦班
広電→高速船→バスと乗り継いで江田島の海自第一術科学校へ。海自の歴史についての展示を眺めたあと、10:30からの見学ツアーに参加し、海軍兵学校時代の建築と陸奥の主砲などを見学した。その後は校内で海軍カレーを食べ、観光案内所の二階にある海軍の展示室を見学し、高速船(海自の艦艇も見え、これ自体が観光のようなものであった)で呉へ向かった。呉では入船山記念館の閉ざされた門を覗いただけで、電車で広島へ戻り、広電で袋町停留所へ。そこでは被爆建物・旧日銀広島支店の内外をじっくり眺め(竣工当時の内装が残っている)、ホテルへ戻った。

岸本班
しまなみ海道、尾道。
尾道に向かい、レンタサイクルを用いて向島、そして因島までサイクリング。因島では日本構成遺産の青木城などの史跡をみる。
その後尾道にて尾道ラーメンを食べ、展望台へ上った後、尾道映画記念館へ行き、小津安二郎監督作品などの展示を見た。疲れていたのでここで帰宅。

増田班
フェリーに乗って大久野島へ。
大久野島は1900年代日本軍が、秘密裏に毒ガスを製造していた場所で、いまはウサギの島として有名である。
大久野島の中には戦中に使っていたのであろう砲台跡や武器庫跡、毒ガスを貯めておくためのタンクなどがあった。また毒ガスについての資料館があり、作られていた毒ガスの解説とそれについての展示物、風船爆弾の解説などがあった。多少雨は降っていて見学しにくくはあった。到着は6時ごろ

夏旅行2日目

岸本班
厳島神社、原爆ドームをめぐる。
岡山から移動で12:00頃に宮島口着。お昼時だったのでカキフライ定食を頂き、厳島神社に参拝した。この時既に土砂降りであり厳島神社につく頃には全身がすっかり濡れてしまっていた。参拝後、宝物館に立ち寄り厳島神社に奉納された様々な宝物をみる。平安時代から明治まで、様々な貴重な宝物が展示されていた。その後フェリーで平和記念公園まで向かい、原爆ドームを見る。そして平和記念館を見て広島原爆の悲惨さを痛感。その後広島城へ行き天守閣内の展示を見た。その後ホテルへ。

小川班
2日目は朝早くに宿をでて呉にある大和ミュージアムと海上自衛隊呉資料館を訪ねた。大和ミュージアムでは特別企画展として沈んだ武蔵について展示をしており、海の底に武蔵の残骸がどのように散らばっていたのかを精巧に作った模型などが置いてあった。
呉資料館では機雷の種類、機雷の危険性、機雷除去の方法についてや、潜水艦についての展示がされていた。その後広島の宿へ向かい、2日目の行動を終えた

川崎班
福山駅からバスに乗って、かつて港町として栄え、三条実美が七卿落ちの時に隠れ蓑に使ったと言われる鞆の浦に到着した。街並みを散策していると、江戸時代中期から作られ、将軍にも献上されていたという薬用酒、保命酒を売る店のお婆さんに呼び止められた。下関から入ってきた朝鮮通信使が鞆の浦を経由したという話や、現在の上皇が高校生ぐらいでここを訪問された時の写真、それから保命酒に使われるたくさんのスパイスを見せてもらった。多くの家が軒下に茶色の紐を張り、紙垂を飾り付けていたので、質問してみると、この辺りは祭りが多く、つい昨日も祭りがあったばかりだという。酒屋を出て、瀬戸内海を展望するため、山の上の方にあるお寺に行き、それまで間歇的だった霧雨が降り止まなくなったので、軒下で雨宿りをすることにした。しとしとと終わりなく降り続ける細かい雨に霞む眺望から、遠い漁船のエンジン音が聞こえた。山を下って保命酒の酒蔵と販売所を兼ねていた太田家住宅を見学したが、この住宅の透徹した張り詰める美意識は中々素晴らしいものだった。その後も乾物屋で乾燥させたシラスを買わされたりしながら、街中で過ごし、バスに乗って福山駅までもどり、ホテルに戻ってきた。到着は6時ごろ。

松浦班
2日目
電車で福山へ。雨の中福山城に向かったが、残念ながら天守は休館日だった。仕方ないので櫓を眺めて三原へ。駅直結の三原城天主台を見て、堀の外周を回ったら昼食をとり、駅前のみはら歴史館へ向かった。規模は大きくないが暇つぶしにはなった。
それでも時間があったので広島へ向かい、ホテルに荷物を置いて平和記念資料館を見学。時間ぎりぎりまで見てホテルへ帰った。

夏旅行 1日目

川崎班
新大阪駅からさくら夙川駅に移動した私はバスを一度乗り換えて、須賀敦子が眠る甲山墓園に向かった。広大な敷地を有する霊園の一部のカトリックの一画に、須賀家の墓標はあり、その左側の花立には頼りなさげに枝垂れる小ぶりな向日葵が生けてあったったので、右側の花立てに、墓園の入り口で半ば無理矢理買わされた花束をいけることにした。マルグリット・デュラスのエッセイ、特にラ・マンとエクリールを須賀敦子の翻訳で読むことが出来なかった不幸を託ちながら、墓地を後にし、タクシーを呼んで、高級住宅街として知られる六麓荘町を抜け、フランク・ロイド・ライドが設計したヨドコウ迎賓館に向かってもらう途中、芦屋の海辺に作られたモノリスのような形をしたマンション群を目にした。ヨドコウ迎賓館は、現在は明治村に移築されている帝国ホテルを設計するために来日していたライトが、日本にいる間に設計した建築で、彼の描いたヤード・ポンド法の設計図に、畳をぴったりと敷き詰めるのに、日本人の弟子が苦心していたという。建物を出て芦屋駅から岡山駅まで2時間ほどかけて移動し、午後6時40分ぐらいに到着した私は、学生が旅行で、しかも地歴部が泊まるにしては、豪華なホテルに驚いてしまった。

曹班
 新大阪から御堂筋線、阪和線に乗って堺市の大仙古墳に行きました。大仙古墳の入口の近くに行って、ボランティアガイドの方の解説を聞いてから、堺市博物館に行きました。堺市の古代から近世までの通史の常設展と、大仙古墳世界文化遺産登録を記念した特別展を見ました。
 そこから、阪和線で天王寺駅まで行き、自由時間にして、僕は通天閣に行きました。しかし、残念ながら並び時間が長く、下から見るだけで終わりました。
 その後、天王寺から大阪環状線で大阪駅に行って、そこから山陽本線で岡山まで行きました。

松浦班
芦屋川駅から歩いてヨドコウ迎賓館へ。F.L.ライト設計の重要文化財に指定された邸宅。世界遺産に登録される公算が大きいこともあり、自分のほかにも訪問者がいくらか居た。見どころは二階の広間と四階のバルコニーだと感じた。
その後、思っていたより時間がかかったので岡山へ直行した。

増田班
12時54分京都線新快速にのって芦屋で降りた。芦屋神社に行った。
途中の坂がかなりきつかったが、後ろを振り返ると芦屋の街が綺麗に臨むことができた。芦屋神社まあまあ狭い神社なのだが、社が6個くらいあった。そして横穴の石室の古墳をみて、少し休んでから芦屋駅にもどり、播州赤穂に向かった。そこでは赤穂城跡を見て、赤穂大石神社に行った。神社には47体の赤穂浪士の石像があったが、あまり一体一体の違いがなかったので少し残念。そのあと赤穂の歴史博物館に行った。そこでは赤穂藩の歴史が解説されていた。
そのあとは電車に乗り岡山へ向かい、到着は7時ごろだった。

小川班
新大阪から岡山へ行き、ホテルグランヴィア岡山にチェックインをして班員の荷物を置かせてもらった後に倉敷へ向かった。倉敷に着いたのが六時だったため多くの博物館を見ることができなかったが、外観もまた素晴らしいものだったため満足だ。また、十数年観光所に勤めていたおじいさんにお話を聞きここ数年での変化を聞くこともできたため、とても貴重な体験ができた。

岸本班
新大阪で少し豪華めの昼食を頂いた後岡山に向かう。後楽園をみたところで18:00になっており、他の史跡も閉まっていたので諦めてホテルに帰る。

春旅行 4日目

川﨑班
鳥取駅前からタクシーで鳥取砂丘へ。運転手の方言がきつく、なんと言っているか分からないことがいくつかあったが、適当な会話をして車中を過ごした。砂丘で1時間くらい自由行動にして、私は崖のようになっている砂山の向こう側に降りてみた。バスがまだ動き出していないためかツーリストはまばらで、風紋も見ることができた。帰りのバスの時間が来たので、増えてきた観光客を見やりながら鳥取駅に戻った。直通の特急で京都駅に向かった。そこからJRで嵯峨嵐山駅に向かった。徒歩でまず渡月橋に、そして竹林の小径へと歩を進めた。この橋梁は弘法大師の弟子が836年に建設した橋が元になっていて、1606年の改修によって、100mほど離れた現在の場所に移動したらしい。ちなみに欄干以外は鉄筋コンクリート製である。竹林に関する説明は特になく、様々な言語による竹へのいたずら書き(マジックや削りなど)が目立った。観光客が多すぎたので、嵯峨嵐山駅に近い京都ジオラマJAPANに避難した。ジオラマは京都の名所をいくつか再現し、HOゲージを走らせたものだった。京都御所もあったので文化祭で作る模型の参考になった。ここで今日の行動は終わり、到着は6時ごろ。

曹班
朝8:10の高速バスに乗って、大阪梅田に11:20ほどに着きました。コインロッカー探しに色々と苦労したものの、12:00ほどに大阪環状線に乗って、大阪城公園に行きました。近くのカフェで軽い食事を済ませた後、本丸を見学しました。非常に人が多かったのですが、展示は興味深いものばかりで、知識になりました。近くの梅や桜を鑑賞して、森ノ宮駅に行きました。そこから中央線に乗って、弁天町に行き、落し物を取りに行きました。弁天町から環状線で天王寺に行って、あべのハルカスや通天閣に行きました。そこから環状線で大阪に戻って、京都まで行きました。

松浦班
鳥取駅から特急と普通列車で大阪へ。着いたらまず昼食をとって、その後環状線で森ノ宮へ移動した。そこから歩いて大阪城へ。とにかくスケールの大きい城で、石垣は高く、堀は広かった。特別公開期間中だったので焔硝蔵と大手口多聞とその続櫓、さらに千貫櫓の内部を見学したが、これも広いものばかりで、ボランティアガイドの有益な解説と合わせて楽しめた。しかし、本丸と天守は観光客で溢れかえっていて落ち着いて見られるような状況ではなく、残念だった。帰りは谷町四丁目から地下鉄とJRを乗り継いで京都へ移動した。到着は18:10ころ

小川班
特急を使い鳥取をでて姫路に向かい、バスに乗り打越から歩き太陽公園に到着した。
太陽公園とは石工の技術によって世界各地の石像や建造物の模造品を作り、それを展示している場所だ。太陽公園には大量の古代メキシコの神々の石像、古代中国の兵士像又それらが市民体育館大のスペースに並べられた兵馬俑を模したもの、天安門、ノイシュバンシュタイン城を真似して作られた巨大な城など様々な物があり、どれも凄まじい出来栄えだった。
太陽公園を出た後姫路に戻り姫路城をさらっと見た後に宿へ戻った。

春旅行 3日目

川﨑班
特急や私鉄を乗り継いで、出雲大社前駅へ。そこから徒歩で国引き神話で知られる稲佐の浜にいった。砂浜の象徴的な存在である大きな岩に、どこの観光地でもよくあるように小銭がはめ込まれていた。若さを持て余している班員は、何故か彼らの硬貨を投げ上げて、その岩の高いところに乗せようとしていた。そこから出雲大社への道中に、出雲阿国の墓が突如現れたので見学した。出雲大社では自由行動にし、私は一人で境内を歩き回った。山陰特有の、あのよどんだ白い空と、うすい霧も手伝って、あまりの神々しさに魅了された。国の文化財に指定されている建物で蕎麦を食べて、鳥取県立古代出雲歴史博物館にいった。確か千と千尋の神隠しに出ていたと思う、たたら製鉄のふいごの体験が面白かった。この仕事はばんこというのだが、重労働なので、交代しながら行うらしく、それがかわりばんこの語源になっているらしい。他にも大量の銅鐸や銅剣が展示してあった。せっかく興味深い展示であるのにも関わらず、一部の班員は早々と退散して、スマホに興じていたので、もったいないなあと思いながら傍観していた。博物館を見終えて、駅に戻り、再び特急で宿に戻った。到着は7時50分ごろ。
曹班
朝砂丘そばを食べてから、電車で淀江駅まで行きました。そこから、2.6kmほど歩いて、山の上にある妻木晩田史跡公園に行きました。受付に入って、弥生時代の村についての展示を見てから、少し休憩をとって、電動自転車を借りて、妻木晩田史跡公園内を散策しました。人は合計で3人しか見ませんでした。然し、風景は素晴らしく、弥生人の自然豊かな生活を少し実感することができました。小規模な墳丘の集合や、高床倉庫らしきものを見ました。90分ほどのサイクリングを経た後、タクシーで数10km離れたイオンモールに行きました。ロースカツ定食をたべた後、イオンモールを少し回って、バスで米子駅に行きました。米子の市役所付近で降りて、美術館を素早く見て回った後、駅まで行って、鳥取ライナーに乗ってかえりました。
松浦班
バスで県庁前まで行き、箕浦家武家門を見てから鳥取城へ。復元された木橋を渡り、城内に建っている仁風閣を見学。片山東熊設計の明るい洋館だった。
その後は坂を登って二の丸と天球丸を散策。櫓台の高い石垣と市街地を見下ろすロケーションは素晴らしい。天球丸の球面石垣は日本唯一とのこと。本丸には行かずに山を降り、バスに乗って鳥取砂丘へ向かった。
昼食をとったあと砂丘を散策し、馬の背に登ってから戻りバスで鳥取駅へ。
そこから鉄道で若桜へ向かい、駅構内の蒸気機関車と若桜民工芸館(材木商の邸宅を再利用した土鈴の展示館)を見学。宿場町の雰囲気が良く残っていて良い街並みだった。一通り歩いて駅へ戻り、鉄道で鳥取駅へ。到着は17:30ころ

春旅行 2日目

川﨑班
朝遅くに乗車、列車を乗り継いで岸本駅まで行き、そこから徒歩40分ほどで植田正治写真美術館に到着した。植田正治は1913年に生まれ、2000年に没しているが、死後またその魅力が再発見されているようだ。美術館の展示に特にそういった記述はなかったのだが、画面構成はスペインの画家サルバドール・ダリを彷彿とさせるシュルレアリスム的なものだった。当時の土門拳を代表とする写真家が目指していたリアリズムとは一線を画す写真表現を、彼が目指していたということは非常に興味深い事実といえよう。また美術館にはカメラ・オブスキュラがあり、大山の風景を大きな壁面で楽しむことができた。”暗い部屋”の織りなすプリミティブな結像は、とても美しいものであった。昼食を古民家を改造した蕎麦屋でとって帰路に着いた。到着は6時20分ごろ。

曹班
9:05のバスに乗って、鳥取から浦富海岸まで行きました。浦富海岸周囲を散策した後、昼食をとって、バスで浦富海岸島めぐり遊覧船乗り場まで行きました。そこから遊覧船に1時間ほど乗って、海岸沿いを回りました。浦富海岸島めぐりが終わったら、バスで鳥取砂丘まで行きました。砂の博物館(閉館中)を通り過ぎて、砂丘に入り、断崖らしきところで遊びました。

松浦班
普通列車に揺られて松江駅へ。昼食を済ませてからバスで移動し、ごうぎんカラコロ美術館とカラコロ工房を訪問。どちらも銀行の建物を再利用したもので吹き抜けが印象的。工房では金庫室も見学できた。
その後は歩いて竹島資料室へ。領土問題に関する大量の資料があり、とても興味深かった。日本国民なら訪れるべき場所。
次に徒歩で松江城へ。敷地内にある興雲閣は階段室が印象的な洋館。天守は国宝に指定されており武骨な印象を受けた。
一通り城内を見たのちバスで駅に戻り、特急で鳥取駅まで帰った。到着は18:10ころ。

小川班
朝7時25分の電車に乗り米子を経由して安来駅まで3時間かけて向かい、無料のシャトルバスで足立美術館まで運んでいただいた。帰りのシャトルバスまでの5時間を周辺で過ごした。日本一の日本庭園や紫峰の絵を見学した後、郷土料理であるどじょう鍋を食べ、地元の温泉であるさぎのゆを楽しんだ。2キロほど離れた場所に山中鹿之介の生誕地では城跡や着物を見た。島根はいままで訪ねたことが無かったので大変有意義な1日になった。

春旅行 1日目

川﨑班
京都から城崎温泉駅に特急で向かい、駅前で電動自転車を借りて、玄武洞公園に行った。火山活動により、幾何学的な模様に冷えて固まった玄武岩が見られることで、国立公園になっている場所である。江戸時代に当時の儒官が、この洞窟状の岩の名前を玄武洞と命名し、明治に入ってからこの岩石の名前を決めるときに、東京大学の博士が、玄武洞から借名したらしい。つまり玄武洞は玄武岩の名付け親というわけである。公園を後にし、再び自転車で城崎市内に戻り、それを返してから、徒歩で城崎文芸館に行った。そこでは所謂白樺派の文豪たちについて展示してあった。英語の教科書、クラウンに載っていた劇作家の平田オリザに関するものも多くあり印象的だった。文芸館の敷地内の足湯で、コウノトリの生態と、姫路城の落城のさせ方について非常に正確な知識を持った、地元の小学四年生と話し感心した。コウノトリについては学校でみんな勉強するらしい。文芸館で手に入れた志賀直哉の短編集を参考に、彼が訪れたという三木屋、一の湯の近辺を歩いた。城崎温泉駅に戻って、鳥取駅までJRで向かった。到着は19時20分ごろ。

曹班
10:45に京都について、山陽本線で新大阪を経由して、神戸に行きました。南京町を通って、食事をした後に、メリケンパークに行きました。海洋博物館で船の模型、神戸港の歴史についての展示を見てから、隣のポートタワーの展望台に行きました。

松浦班
京都駅から新快速で大阪駅へ。御堂筋線に乗り換え、心斎橋駅で下車。ユニクロ心斎橋店、大丸心斎橋店本館、松竹座、旧新歌舞伎座、南海難波駅、旧精華小学校の外観保存の実例を見学。その後なんば駅から再び御堂筋線に乗り淀屋橋駅で下車。日銀大阪支店、住友ビルディングの外観を眺めて大阪駅へ戻り、上郡まで普通列車、そこから特急で鳥取へ。遅延に巻き込まれ、19:25に到着。

冬旅行 4日

川﨑班
9時ごろに宿を出て、新幹線で新白河から郡山、在来線で郡山から猪苗代に向かった。猪苗代駅から猪苗代湖湖畔を目指し、20分ほど歩いて湖畔に到着した。よくポスターなどで目にする白鳥が、本当にいるか気になっていたが、3羽確認することが出来たので、本当に渡ってくるのだろう。湖の外周に沿って、撮影しながら歩いた。強風で体感温度が-5度くらいだったので、喫茶店を見つけられたのは幸いだった。コーヒーを飲んで、猪苗代駅へと戻ったが、雪が風と共に吹き付けてきて、非常に寒かった。猪苗代駅から会津若松駅に移動し、さざえ堂と御薬園を巡ることにした。さざえ堂は1796年に建てられた仏堂で、その螺旋構造は技巧的で希有なものだった。御薬園は江戸時代に時の藩主が、貧しい領民を病気から救うために、薬草を栽培し始めたことがきっかけで生まれたそうだ。この2つを見学し、新白河に戻った。

松浦班
磐梯熱海の温泉へ。天気雪の中をかんぽの宿郡山へ歩き、入浴。雪の中入る露天風呂は格別だった。上がったら大広間で休憩し、昼食をとって駅へ向かい、電車に乗る。猪苗代駅で降り、てきとうに散歩してから磐梯熱海に戻る。きらくというホテルでまた入浴し、また駅に戻って電車で帰った。

曹班
9:11の新幹線で、郡山に向かいました。そこから、磐越西線に乗り換えて、猪苗代に向かいました。そこから、バスに乗って、4kmほど離れた野口英世記念館に向かいました。中には、野口英世の略歴、業績は勿論、更に生家も保存されていました。野口英世記念館の見学を終えて、昼食を食べたあと、会津民俗記念館に行きました。そこには、会津の明治期の民家が展示されていました。そのあと、猪苗代湖の湖畔を少々歩いたあと、吹雪が始まったことを受けて、タクシーで駅に帰りました。郡山に行って14:47に解散し、そのあとは仙台のイルミネーションを見に行きました。

冬旅行3日目

川﨑班
朝6時ごろに新白河を発ち、青春18切符を使って仙台まで3時間以上かけて向かった。るーぷるという観光地巡回バスを使いまずは瑞鳳殿に行った。瑞鳳殿は先の大戦で消失し、1985年に再建されたそうだが、綺麗すぎるのか今ひとつ趣にかけた印象だった。次に仙台市博物館に向かった。私は歴史に興味がないので、つまらなそうだなあと思いながら入館料を払ったが、とても興味深い展示だった。というのも慶長遣欧使節に関する展示が面白かったのだ。伊達政宗が、スペインと通商を行うために、その国王に対して使わした書簡や、使節の責任者、支倉常長が渡航先で手に入れた絵画などが陳列されており、とにかく前述の金銀が散りばめられた和紙の書簡は素晴らしく美しいものだった。使節の詳しい内容はここでは割愛する。続いて仙台城に向かったが、本丸は復元されておらず、石垣の積み方が美しかったこと以外、特筆することはない。その後、仙台メディアテークという図書館兼美術館のような施設を訪れた。地元の高校生達が制作した絵画や陶芸、CG、短編映画などが展示されており、なかなか感心した。仙台へ戻り、新幹線で新白河に戻った。
松浦班
飯坂温泉へ。旧堀切邸を見学し、足湯に浸かったあと鯖湖湯という共同浴場に行く。しかし湯温が高くとても入れるものではなかった。そのあとは波来湯へ。こちらは水を足していて丁度良い。湯船を出たら愛宕山を登って景色を眺めた。
曹班
9:11の新幹線で郡山まで行き、9:55の磐越東線で神俣まで行きました。そこからタクシーで10分ほどして、あぶくま洞に向かった。あぶくま洞内は、寒くはなかったが、湿度が90%越えだそうです。1時間ほど中を回って、洞内コンサートも見ました。イルミネーションが素晴らしかったです。上の食堂で食事をとって、神俣駅に戻りました。14:03の電車で郡山に戻り、科学館の展望台に行きました。
小川班
9時に宿を出た。猪苗代駅で降りて、バスに乗ろうとしたが、1日に三本しかなかったので、雪の積もる中を30分くらい歩いて、野口英世記念館に向かおうとした。その時、会津民族館にも行くつもりで、目的地がどれも近い位置にあったので、4時間の自由時間を設けた。野口英世のロボットがあり、勝手にクシャミをしたり、その際に手の仕草が連動したりして怖かった。4時間も自由時間をとったので、時間が余ってしまった。班員と意見が分かれ、僕は広い野原で一人で雪遊び、班員は猪苗代湖へ行った。帰りに駅に向かう道が、冬季につき通行不可だったが、無視して通った。7時に宿に到着。

冬旅行 2日目

川﨑班
8時ごろ宿を出て、列車を乗り継ぎ湯野上温泉駅へ。そこから50年前に製造されたというエンジン音が賑やかなバスで大内宿に向かった。藁葺き屋根の上には雪が積もっており、地面にも溶けかかった雪が薄く積もっていた。雪が積もりすぎていたら歩きにくいし、多少は積雪していた方が風情が出るので、ちょうど良い塩梅であった。店のお婆さんに勧められてイナゴの佃煮をみんなで試食してみたが、ふつうにおいしいと思えた。多分、見た目がイナゴではなかったら買っていただろう(540円でたくさん入っている)
そのあと餅とねぎそばを食し、あたりを散策した。大内宿は江戸時代まで宿場町として栄え、明治に鉄道が開通したことによりその役割を終えたが、現在に至るまで景観は保全されているということだった。新白河から大内宿まで3時間以上かかるので、1日かけて大内宿と宿を往復するのがやっとだった。
松浦班
郡山へ。ビッグアイ→金透記念館(外観のみ)→郡山合同庁舎(外観のみ)→郡山市歴史資料館→郡山市公会堂(外観のみ)→郡山市開成館→安積歴史博物館と見て回る。歴史的建造物が多い街で充実した観光だった。そのあと白河で降り小峰城に行くも閉園した後だった。
曹班
8:22の電車で郡山に向かい、そこから高速バスで会津若松に行きました。11前に到着し、そこから鶴ヶ城に向かいました。鶴ヶ城は、博物館形式になっており、戊辰戦争150周年記念にちなんだ展示が豊富でした。中でも、シルクロードを通じた文明の伝播を感じられた絵画は印象深かった。その後、昼食をとって、福島県立博物館に行きました。福島の歴史を旧石器時代から昭和時代まで説明されていた。14:09のバスで、野口英世青春館方面に向かい、その付近を回ったあと、高速バスで郡山に戻った。
小川班
朝の10時に宿を出発し、新白河駅から会津若松駅まで電車を乗り継いでいった。タクシーで東鳳旅館まで向かい昼食と入浴をした。その後タクシーの運転手に聞いた会津若松の観光名所を回った。
2代目から9代目の松平家の墓や近藤勇の墓はともに年季の入ったもので、偉人たちの歴史を感じさせた。
鶴ヶ城はさまざまな角度から天守閣を眺めることができ、福島県立博物館には福島県で発掘された化石などの遺物が数多く展示されていた。
出発が遅かったこともあり、時間も迫っていたので宿に帰った。到着時間は7時頃。

冬旅行 1日目

川﨑班 
上野から乗車し、宇都宮にて下車。そこからバスで30分ほどの大谷資料館へ。地下深くに非常に広大な空間が広がっており、気温は5度程度しかなかった。この温度の低さを利用して、政府の備蓄米などが保存されているらしい。
資料館を出た後、再びバスで宇都宮に戻り、JRで黒磯駅まで乗車。黒磯からバスで鹿の湯へと向かった。41度から48度までの浴槽が用意されていた。鹿の湯から黒磯に戻り、新白河へ到着した。
曹班
宇都宮から徒歩で松が峰教会に行くことを決めたが、到着するのに40分もかかってしまった。そこからバスで大谷資料館に行こうとしたが、無計画が功を奏し、50分も待つことが出来た。大谷資料館に到着し、見学の後、帰路に着いた。
松浦班
新白河へ向かう途中、鉄道博物館に寄った。博物館では自由行動をし、3時間ほど見学をしたが、新館の展示には震撼した。この日はそれ以外には足を運ばずに宿に向かった。

2018-7-25 夏旅行  3日目

宿を9時頃出発し、地下鉄で三ノ宮へコインロッカーに荷物を預けて地下鉄海岸線で神戸海洋博物館へ
1階には模型とカワサキワールドが、2階には神戸港の歴史の展示があった
精巧な帆船の模型に真珠を飾り付けたものが豪華に展示されていて、責任者の正気を疑った
三ノ宮に戻ってからポートライナーでUCCコーヒー博物館へ
個人的には様々な抽出方々があるのが興味深かった
950円のコーヒーを飲んでみたが、造詣が深いわけではないので違いがイマイチわからなかった
時間の都合で六甲オルゴールミュージアムは諦めることに決め、三ノ宮に戻った
そしてこの班の一番の目的であるかつめしを優雅に食べ、倉敷へ
途中トラブルがあったせいで倉紡記念館と日本郷土玩具館が閉まってしまうことが事前にわかっていたため、備前焼を売っている陶備堂に寄って香炉を買い、新倉敷のホテルに向かった
到着は19時前
3日目 一人班。一ノ谷に行った後、備前焼ミュージアムと備前刀剣博物館などをまわる。刀の製作現場、方法など様々なことを学ぶことが出来た。到着 18:00
3日目 明石城・津山城
 8時30分集合であったが、班長自ら寝坊してしまい、慌てて神戸駅に向かった。そこからまずは明石城に向かった。
 明石城は、西国の外様大名の抑えとして築かれた城であり、10万石弱の大名にしてはかなり大規模な城郭であると感じた。そこから明石市立文化博物館に向かった。館内では大別して明石原人と近世の城下町としての明石について解説していた。明石原人は初耳だったので興味深かった。また、特撮についての展示があり、特に古い映画のポスターに惹かれた。
 その後明石駅に戻り岡山まで乗り継いだが、ここで津山線が一部区間で運行を停止していることに気づき、振替輸送を利用しつつ津山駅まで向かった。これにより観光時間が1時間ほど減ってしまったので、城西浪漫館は諦め津山城のみを観光することにした。
 津山駅から15分ほど歩き津山城に向かった。ここは、森蘭丸の弟森忠政による築城であり、壮大な石垣群に圧倒された。縄張りとしては、防御力の高い枡形門を多用しており、極めて堅固な城塞であることが見て取れた。一方で、城内の施設で唯一復元された備中櫓は、内部が御殿風のつくりとなっており、畳敷きで茶室まで備えた優美なつくりが新鮮であった。全国的にも極めて珍しい例らしい。
 ここで電車の時間が迫っていたので足早に城を去り駅に戻った。駅到着は19時40分ごろか。

2018-7-24 夏旅行 2日目

神戸の異人館街を巡った。午後はUCCコーヒーミュージアムに行ってコーヒーの歴史などを学んだ。到着 16:00 
2日目 泉南・堺
 宿を7時45分に出発し、神戸駅から列車を乗り継いでまず岸和田城に向かった。
 岸和田城は岸和田藩の政庁が置かれた場所であり、往時は5重の天守閣があったが、現在は3重の復興天守になっており、別段面白みはなかった。ただ、城内の八陣の庭は独創的な形をしており興味深いものであった。
 城を出て自泉会館に向かった。ここは地元の寺田財閥が市民のために寄付したものであり、綿業会館の一室とよく似ていると感じた。しらべるとどうやら同じ建築家の仕事らしいことがわかった。
 その後岸和田を出て田尻歴史館へと向かったが、長期閉館の最中であったため、失意の内に計画を変更し、ゆっくりと大仙古墳へ向かうことにした。途中駅舎のステンドグラスが見事な蛸地蔵駅を鑑賞した。
 古墳に向かう前に、近隣で古墳カレーを食べた。ほとんど民家のような様子であり、店員の方もフレンドリーであった。帰り際代金を払い忘れていたことに気づき、あわてて引き返した。
 その後堺市博物館で古墳や戦国時代の自由都市堺について学んでから、ガイドを受けつつ大仙古墳を見学した。堀において赤い藻が大量発生して血のようであったのが印象的だった。
 見るべきものを見たのでその後はゆっくりと神戸に戻った。到着は18時前か。
神戸 ムスリム モスク
1935年に建てられた日本最初のモスク。
神戸大空襲や阪神淡路大震災を免れて現存する。
兵庫県公館
1902年に県庁舎として建てられたが、第二次世界大戦で外壁を残して全焼、今は割と近代的で残念。今は迎賓館と県政資料館として、歴史や文化の展示が行われている。
シルクロード絨毯ミュージアム
六甲アイランドにある。西はトルコ、イランから中国、日本までシルクロード各地の手織り絨毯を集めたミュージアム。班員が数千万円はしそうな絨毯で寝てしまい、出て行ってもらわなあかんと言われる。
谷崎潤一郎記念館
谷崎潤一郎が執筆を行なったのは、別の屋敷だったが、かれの生い立ちや、彼が実際に書いたものが展示されていた。
有馬温泉に行った。

 2018-7-23 夏旅行 1日目

今回は2つの班からしか行動が送られてこなかったので、掲載はひとまず2つになります。今朝新大阪に到着し、今日は神戸に宿泊しています。

小川班
新大阪に到着後、三ノ宮駅へ向かう。ここで来訪予定の箱木千年屋が休館であると知り、肩を落としつつ北野異人館街に向かった。風見鶏の館、萌黄の館は一度訪れたことがあるが、やはり暖炉まわりのマントルピースやタイルを見るのは楽しい。その後向かった山手八番館は みすず学苑の広告のような内容で、様々な地域・時代の美術品が脈絡なく置いてあった。その後中華街で昼食を取った後、神戸税関に向かった。ここは現在工事中であったが、税関の仕事を学ぶことができる展示室を見学することができた。班員の体力が限界であったため、ここで行程を終え帰った。到着は17時前か。


川崎班
新大阪から淀屋橋駅へ
大阪府立中之島図書館 1904年に住友財閥の住友家により大阪府に寄贈され建築された。
大阪市中央公会堂
1911年に大阪の株式仲買人の岩本栄之助が100万円の寄付をして、それを元に建てた。辰野金吾や片岡安(かたおかやすし)が携わっている。給食大会でホールは入れず。
新大阪から三ノ宮
デリカテッセン、村上春樹のダンス・ダンス・ダンスに登場するので行ってみたかった。ロイヤルコペンハーゲンの食器が使われていた。
イタリア館
もともとは永住しない外国人向けの借家だったが、日本人が買い取って、住んでいる。
その人が集めたイタリアの彫刻家の家具や、各国のホテルの食器。マリーアントワネットのテーブル。
プールサイドから見るとイタリア風なのでこの前がついた。
ベンの家
ハンターのベンさんの家。北極熊やいろんな虎、鷲など。屋敷を残し冒険に出かけたきり行方不明に。
洋館長屋
イタリア館と同様に外国人向けのアパートとして、治外法権が及んでいた旧居留地に建てられ、今の場所に移転。構造が長屋のようなのでこの名前。
英国館
医師の家族の住まいと診療所。英国館100周年でホームズの部屋をここに再現したいとして、小説内の部屋などを再現した。

お詫びとお知らせ

80代渉外です。

またまた私のさぼり癖が出てしまいました、大変申し訳ありません。
言い訳ではありますが、わが部活は恒常活動でも旅行でも、班ごとに活動の分かれることが多いので、そのすべてを把握しきるのは大変難しいのです。
班長の方に内容を送るように指示するというのも、旅行ならまだしも普段の活動となると、どこかで停止してしまうものですよね。まぁもうすぐ代替わりなので、全体的にまじめな次代は大丈夫でしょう!

部誌から来られた方もいそうなので、謝罪文(?)はここまでとして、今回まとめてアップした内容をお知らせします。
 1.冬旅行
 2.1月月例
 3.春旅行
 4.4月月例
 5.一般活動(ダイジェスト版)
以上、5つの報告を一気にアップしています。かなり面倒だと思いますが、閲覧していただければ嬉しいです。
 

第71回文化祭までの活動(ダイジェスト)

・須山班
城壁とジオラマの部品作りを並行して行う日々。


・松野下班
10月上旬
資料集め開始。テーマは19世紀のプロイセンの蒸気機関車であったが、インターネットや図書館では見つからず、途方に暮れる毎日だった。修業論文と時期が重なっていたことも要因の一つだろう。

10月中旬
インターネットでの英語検索を取得したところ、英国初の“Alamy”という電子ギャラリーのサービスを発見した。このサービスには博物館で展示されているような品々の詳細なスケッチなども収録されており、目的の資料もその一つにあった。
しかし、実際に普仏戦争で使用された車両ではないようだったので、資料探しは継続して行うことにした。

10月下旬
どうやら普仏戦争当時の車両というのはなかなか文献に残されていないようで、このころには自分の手が届く範囲では見つからないことを薄々と感じ始めていた。祖霊たちが里帰りする31日には諦めもつき、中旬に入手した資料をベースに進行すると決心した。

11月上・中旬
資料をもとに必要な部品を分析し、寸法を測りつつ種類ごとに図面を作成。前回のソ連展でも行ったものだが、今回はより正確な寸法を算出することに注力した。
そうと決まればすぐに、円柱の“ボイラー外殻”や“車輪”から部品を製作していった。しかし車輪には大変苦労させられ、「アスタリスク状に張り合わせた1mm角棒をバルサシートから切り出した2枚の輪っかでサンドする」とかいう工程を6回も繰り返さなければならなかった。期末試験1週間前にはおよそ半分ほどの部品が完成している状態であった。

冬休み
部品製作の続き。設計ミスによって部品が組み合わさらない、という事態が何度か起こったが、それでも冬休み明けには部品のすべてが完成していた。

1月中旬
すべてを組み合わせる前に、部品にジェッソを塗布していった。塗布前に軽くやすり掛けをしたおかげで、なかなかよい肌触りになった。

2月中旬
1月下旬2月上旬は某S連合の職務に追われていたため、作業はできなかったので、ようやくの塗装であった。はじめは単純に黒一色のつもりであったが、友人のY氏より助言を受け、Mr.Colorの「黒鉄色」を併用することにした。試しに混色してみると、黒が勝ってしまっただけでなく黒鉄色が固形化してしまったのでやむなく断念。重ね塗りで対応することにした。

春休み
春休みは車輪部分の塗装を行ったが、赤が思うように発色せず、3,4回ほどの重ね塗りをすることになった。
また、模型が少し寂しいように感じたので、石炭と水を運ぶ炭水車を新たに製作することにした。今回はちゃんとした資料がなかったのでいくつかの画像を参考に自分で構造を考えた。そのため綿密な寸法を測る必要がなく、工期は約1週間。突貫工事だったが、比較的上部にできたので個人的には満足である。

4月中旬
文化祭1月前を切ってラストスパート。全体的なブラッシュアップを行う予定だったが、客車を作りたくなったのでその製作と同時並行だった。
客車は構造こそ単純だったが、その分模様を描くのが非常に根気のいる作業であり、色付けしたりジェッソで上塗りしたりの繰り返しだった。それでもなんとか1週間程度で絵付けは終了し、組み合わせることができた。

4月下旬
忘れていた客車の車輪を作りつつ、細かいディテールを追加していった。最後まで後回しにしていた連結棒が想像以上にややこしく、結局は文化祭直前まで取り付けはできなかった。


・島本班
三月4週目および四月1週目
春旅行明けの作業。設計図が間違っていたことが、判明し書き直す。また、無くして書き直す。これらをそれぞれ2回ほど行う。そしてそれらをコピーして、その通りに木を切る。それらに場所合わせの支柱を貼り付け、その後粘土で船体の形を表すのを試みた。

四月2週目
春休みが明け、さらに作業に勤しもうとした日々の中で、ある衝撃的な事実が判明する。なんと、設計図が間違っていたのだ。それにより、春休み中の作業を全て無に返された私は、茫然自失とし、それを指摘した張本人である、Mr.小川に設計図の作業を丸投げした。
しかし、幸いにも春休み中に購入した資材の大きさはほとんど問題なかったため、それらを用い主にオールの大量生産、船体を構成する重要なパーツである、設計図通りの板を作る、などの作業を行った。また、今後また何かのすれ違いが起こらないようにするため、情報の管理を徹底した。マスト作った。それを壊した。

4月3週目
板を全て完成させ、粘土貼ってジェッソ塗った。間違っていた高さへの認識を改めた。甲板にニス塗った。きった。やすった。マスト作った。ぬのきった


・松浦班
4月第1週
アルミパイプを切る
第2週
バルサで部品を作る
第3週
バルサで部品を作る
第4週
別のアルミパイプを切る、木と紙粘土で本体を作る


・曹班
2月21日
買い出し
2月23日
発泡スチロールで土台づくり
3月28日
粘土の層を塗る
4月10日
粘土の高低作り
4月13日
粘土の修正
4月17日
旗づくり,粘土の修正
4月24日
ジェッソ塗り、買い出し
4月25日
スプレー、ジオラマ作り
4月27日
ジオラマ作り
4月28日
ジオラマ修正
4月29日
地名、行軍図を書き込む

2017年度春旅行 4日目

石倉班/京都
朝、寝坊したので朝食を食べた後すぐに走って清水寺に行き、見学した。その後、大石本廟に行き、見学しようと思ったが、手水舎で口を水ですすいだときに、気分が悪くなったので、しばらくそこの待合室で休んでいた。
次に、近くの河井寛次郎記念館を見学した。見学後、昼食をとりながら島津創業記念資料館に向かい、見学した。その後、京都市歴史資料館を見学し、京都御苑を見た後、たまたま近くに来ていたバスに乗って銀閣寺へ。
銀閣寺では、特別拝観期間中だったので、本堂の見学をした。その後、バスに乗って京都駅に帰還した。ホテル到着は5時半ごろ。

小川班/神戸
急遽途中まで川崎班と行動をともにすることにして、8時30分ごろ出発し、9時30分ごろ三宮駅に到着し、最初に北野異人館街に向かった。
最初に風見鶏の館に向かった。異人館の代表格的な邸宅であり、ドイツ風の装飾と、その中で存在感を放つ東洋風の家具が印象的であった。
次に萌黄の館に行った。ライムグリーンの外壁塗装が目に眩しいこの館の内装は、外観に反して重厚であり、特に暖炉のタイルが見事であった。
ついで向かったうろこの家は、入館料が高いうえ、現在の持ち主によって隣にうろこ美術館という建物が建っており、あまり良い印象を持てなかった。文化財保存の難しさを感じる。
その後向かった山手8番館が曲者である。アフリカ、西洋、古代タイ、ガンダーラの像や絵画やタペストリーが所狭しと並んでおり、カオスな面白さがあった。こういう変な場所に行ってみるのも楽しい。
ここらで川崎班と別れて、神戸回教寺院(モスク)に向かった。モスクの中に入るのは初めてであったが、係りの人に丁寧に説明していただき、知識を深めることができた。
異人館街周辺で見るものは見たので、海岸に向かい、商船三井ビルディングなど、近代的なオフィスビルが数多く残る地域を散策してから、中華街で昼食をとった。
一息ついた後、旧兵庫県庁に向かったが、開館していなかったので、班員との協議の結果、早めに市街を離れ垂水区の舞子駅に向かった。ここはすぐそばを明石海峡大橋がかかっており、迫力に圧倒されつつ孫文記念館に向かった。
孫文記念館は華僑の豪商呉錦堂の邸宅であり、孫文が亡命時などによく訪れていたらしい。特に塔屋部の、中華文明と西洋文明が渾然と一体化した内装に心を奪われた。この部屋は全国的にも珍しい金唐革紙という壁紙を使っており、その意味でも貴重な場所であった。
次いで近辺にあった、鐘紡中興の祖といわれる武藤山治の邸宅を見学した。ベランダが印象的なコロニアル様式の外装と重厚な内装が特徴的であった。ここでガイドの方と意気投合して、名刺までいただいたことが本日のハイライトである。
最後に木下家住宅に向かった。直線的なモダニズムのインテリアで統一されたすっきりとした応接室と、隅々まで細やかに気配りがなされた日本家屋が特徴の素晴らしい邸宅だった。
ここですっかり満足して京都へと帰っていった。駅到着は18時ごろか。

松野下班/奈良
予定通りに京都駅を出発し、奈良県は柳本駅。
一人班のため、計画では諦めた伊射奈岐神社を参拝した。この神社は延喜式に記される同名の2座の片方ある。境内には、神武天皇と明治天皇の遥拝所があった。
伝崇神天皇陵である行燈山古墳、33面の三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳に寄り道しつつ、渟名城入姫神社へと向かった。祭神の渟名城入姫命は、古来より天照大御神と共に宮中で祭祀されていた倭大國魂神を別所で祀るよう、崇神天皇より勅令を受けた人物同皇女である。初代斎主を務めたものの、崇神の系譜が倭の土着神である倭大國魂神ではないことから、疲弊して祭祀不能となってしまい、神託によって市磯長尾市(いちしのながおち)が後任となった。神社によると、渟名城入姫命を慕う心から創建したそう。
北西へ歩き、雅宮神社である。大和雅宮神社と間違えて参拝したが、興味深いところであった。境内には戦没者の慰霊碑や遥拝所があった。慰霊碑の半数以上を冬木姓が占めており、付近の日本家屋の多くが冬木家であることから、冬木氏は昔豪農か何かだったのではないかと推測される。
次に、大和神社だ。これは渟名城入姫命が遷御した倭大國魂神を祀る神社で、大日本帝国海軍の戦艦「大和」の守護神であることでも知られる。由緒には渟名城入姫命が遷御した旨のほか、遣唐使の航海祈願が行われたことも記されていたが、どの木札にも「付近に天理教教祖中山みきの生誕地がある」ことが書かれていて、さすが天理であった。境内は普通の神社であり、特筆すべきはなかったように思う。
次に向かったのは夜都岐神社である。境内はたいこ山という前方後円墳であり、武甕槌命を主祭神とする神社だ。参拝すると、奥から声がしたので行ってみるとおじさまがおり、少し話をした。彼によると、付近に住む10人のみが神社の整備をしているそうで、なかなかに大変ということだった。また、近隣の風景が段々と変わっていくことに関して、日本の最初期から続くこの地だからこそ、伝統を引き継いでいくべきだという考えを持っており、変化受容しつつも伝統を守っていくことの大切さについて、改めて考えさせられた。
そこから山の辺の道沿いに歩き、途中で都祁山口神社によりつつ石上神宮へ向かった。この神社は物部氏の氏神、布都御魂神が祀られており、記紀にも記述の見える日本最古の神社である。また、古来から鶏が神使とされているため、境内にはたくさんのコケコーがいらっしゃり、非常に煩かった。ちなみにこの神社、昔は斎宮がいて、布都姫がその任についていたという記述が見られるのだが、この女性は某作品の登場キャラの元ネタとされる。そんな石上神宮の境内は広い方ではなかったため、比較的早く参拝を終えられた。この時点で11時であり、調べると、春日大社まで15㎞=徒歩3時間であった。すなわち、ここから徒歩で春日大社へむかっても、予定より早くに到着できることに気づいたため、歩くことにした。
途中、山邉御縣座神社(やまなべのみあがたにますじんじゃ)、祝田神社、石上市神社、和爾下神社、和爾坐赤阪比古神社、森神社、嶋田神社、穴栗神社、御前原石立命神社(みさきはらいわだてのみことじんじゃ)といった式内社を巡りつつ、春日大社へ向かった。
春日大社には一度行っているので、軽く挨拶をするのみだった。日曜のためか観光客が多く、皇大神宮とは違って作法もお粗末なため、ヴァチカンに来た敬虔なキリスト教徒はこんな気分なのだろうか、などと考えつつの参拝だった。
帰りがけに式内社の率川神社を参拝し、京都へ帰還した。到着時間は、ホテルに着くまでは1800と思っていたが、後輩に1700だと指摘されたので1700である。

2017年度春旅行 3日目

小川班/大阪
班員の寝坊により出発が遅れ、予約していた綿業会館に集合時間ほぼぴったりに到着した。
綿業会館は、紡績業の事業主の社交場として作られ、用途に応じて様々な歴史的様式を使い分けており、非常にきらびやかであった。特に貴賓室が圧巻であり、クイーン・アン様式を用いた直線的なデザインの部屋に、曲線を多用した家具が調和しており、宝石箱の如く輝いていた。見学終了後ここでそのまま昼食をとり、ゆっくりと次の行程に向かった。
船場、中之島の近代建築は、現在でも使用されているケースが多く、内部の見学ができないため、ガイドブックにある近代建築を片っ端から訪れていった。
途中大阪府立中之島図書館にて、大阪の居留地に関する講演会が開催されることを知り、これに参加した。内容は寝てしまい覚えていない。
図書館を出た後散策を再開し、あらかた見終わったところで帰った。京都駅到着後続けて外食をとったので到着が遅れた。宿到着は18時前か。

松野下班/大阪・有馬
京都駅を発ち、大阪府堺市の三国ケ丘駅へ。仁徳天皇陵大仙古墳を始めとした古墳群を眺めつつ、方違(ほうちがい)神社へと向かう。
この神社は崇神天皇の勅令を起源とし、後に応神天皇が方違宮として創建した。このあたりは三国ケ丘と呼ばれる地域で、これは駅名にもなっているが、摂津、河内、和泉の三国の堺にあたる地であり、そのため、古来より方違えのご利益があるとして親しまれた。2000年以上の歴史を誇る神社だが、焼失の憂き目に幾度も遭っており、社殿は比較的新しいものだった。
そこから西方に歩き、開口(あぐち)神社である。この神社も相当の歴史を持っており、起源は神功皇后による祭祀だという。祭神の1柱、塩土老翁神は住吉三神と関わり深いとされ、住吉三神を祀る住吉大社の起源も神功皇后の勅令であることから、住吉大社と同時期の創建だと推測される。境内には地元の高校の発祥である旨が書かれた(神仏習合により、寺子屋が開かれていたか?)石碑や生家が付近にある与謝野晶子に関する歌碑などが設置されており、地域との密着が見て取れた。
宿院駅から南海電鉄で、住吉鳥居前駅である。住吉大社は全国的に有名な神社で、そのためか外国人観光客も多くいた。住吉三神の名で知られる底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)を祀る住吉大社は航海や海運に縁がある神社として人々の信心を集めており、歴史的に見ても、幕府や武士から厚い信仰を受けたとされる。社殿は3つあり、それぞれ住吉三神のうち一柱ずつを祀っているが、これは同じく海運を司る宗像三女神が鎮座する宗像大社と同様の構造である。また、境内には大日本帝国海軍の軽巡洋艦「加古」の元乗組員によって奉納された加古の絵画や、海上自衛隊隊員によって航海祈願がなされた絵馬など、軍事の方面からの信仰も厚いことを伺わせるものがいくつかあった。住吉大社を参拝後、住吉大社創建以前から鎮座するという生根神社を訪れた。
粉浜駅から平野駅へ移動しようとしたのだが、新今宮駅で乗り換えミスを犯したため、先に放出駅へ行くことにした。
放出駅から徒歩数分にある阿遅速雄神社を参拝した。この神社は祭神である阿遅鉏高日子根神がこの地に降臨したことのほか、草薙剣が盗難された際に、盗難者が嵐に出会って剣を放り投げたことを起源とすると伝えられる。また、地名である放出はここから来ているらしい。しかし、境内にはこうした由緒や逸話などの記された文書が全く存在せず、残念だった。
放出駅を南下して、平野駅で下車。駅から少し歩いたところに杭全神社はある。この神社は延喜式には記載されておらず、なぜプランに組み込んだかは自分でも不明だ。神社によると、9世紀平安時代に牛頭天王が勧請されたのが創建という。その後、後醍醐天皇によって熊野三所権現が勧請されたことで、現在の形になったそうだ。境内は拝殿を中心に本殿や摂末社などが取り囲む構造になっており、公園と隣接することもあってか、地域の人々に親しまれているようだった。
次に参拝した香具波志神社も同様に、延喜式には記載されていないが、平安時代の創建である。社名は、孝徳天皇が歌で「香し」と詠んだことから。こちらもなぜプランに含めたのかは不明である。
加島駅から、いくつか乗り継いで有馬へと至った。遅めの昼食を摂ったあと、康貴という温泉処で一休みした。その前に、観光案内所で温泉むすめのパネルを撮影し、感慨に浸った。
さて、康貴であるが、この湯はこじんまりとした浴室ながらも、源泉かけ流しの金泉・銀泉が愉しめることで知られており、訪れてから入浴するまでに少々時間を要した。入ってみると、金泉の方が高温であり、また、濃度が高いためか少し肌がピリピリするような感覚に襲われた。しかし、それは効能の裏返しであり、金茶色に濁った金泉が持つ本来の癒やしの力を味わうことができた。一方銀泉は、温度が比較的低く、湯に透明感があるため、金泉よりも入りやすいような気がした。個人的にはあまり好きな温度ではなかったが、金泉と銀泉に交互に入ることでより長く楽しむことができた。
康貴を出て、自分としては別の温泉へ行っても良かったのだが、班員が十分だというので、自由行動に移行した。自分は有馬の土産物屋などを物色し、そこで発見したパッケージが温泉むすめのデザインである「炭酸せんべい」と試食担当のお姉さんがやけに強く勧めてきた「金泉焼」を購入した。「炭酸せんべい」は有名だが、「金泉焼」は生八つ橋に近い食感をした焦し醤油風味の生菓子であり、ほどよく弾力のある生地とその中に包まれた甘さ控えめの粒餡とが絶妙なコラボレーションを見せる、よい菓子であった。
京都へ帰還する途中で西宮神社に立ち寄った。えびす様を祀ることで有名だが、主目的は某作品の聖地巡礼である。予定を立てる際にJRの駅と阪神電鉄の駅を取り違えたために、駅からの時間を誤ってしまっており、若干エクストリーム気味の参拝となった。ちなみに、類似した別の場所と間違えており、聖地巡礼は結果的に失敗であったことが後に判明した。
東海道本線快速と新快速で京都へ帰還し、ホテル到着は1940頃。

2017年度春旅行 2日目

石倉班/京都
8:45にホテルを出て、徒歩で二条城へ行き、11:20まで見学した。
次に、徒歩で茶道資料館まで行き、13:00まで見学し、近くのバス停からバスに乗り、風俗博物館まで行って、14:00まで見学した。その後、近くの龍谷ミュージアムを見学し、無料だったので西本願寺を拝観したが、時間の無駄だった。
最後に、京都学校歴史博物館に向かい、17:00まで見学し、ホテルに向かった。
ホテル到着は17:23。

小川班/京都
班長の寝坊があり8時40分ごろ出発。
まず京都府庁旧本館に向かった。ルネサンス様式の華麗な建物であるが、ガイドの方の話によると、レンガにモルタルを塗って外壁を作っているため、大地震が来たら崩落する可能性が高いとのこと。早目に見学できてよかった。
その後京都御所を伝って三条通りに向かった。この通りは多くの近代建築が残っており、我々の目を楽しませてくれた。古い建物が今なお使われ続けているのは嬉しい。
班員の要望により、ここで箸休めに平安神宮に向かった。新しい建物ではあるが、広大な敷地と平安京を模したと言われる建物の迫力に圧倒された。
次いで加茂川を渡り、南禅寺に向かったが、お目当ての水路閣を見た後は簡単に境内を一周してさっさと無鄰菴に向かった。ここは山縣有朋の別荘であり、洋館の一室で日露戦争時の外交政策についての会議が催されたらしい。そっけない外観に反する狩野派の壁画が目を引いた。
この時点で昼時を過ぎていたため、かねてより望んでいた長楽館で昼食をとった。村井財閥の迎賓館であった建物は現在高級レストランになっており、値段もプレミアムであった。
時間が押していたので予定を変更し、乙訓郡の大山崎山荘に向かった。黒く輝く木材が美しく、館内に多くあった時計とともにサスペンスドラマのような雰囲気を醸し出していた。
見たいものは見終わったので宿に帰った。到着は17時20分頃。

松野下班/奈良
6時50分に班員の屋慶名くんとともにホテルを出発し、京都駅からJRで金橋駅へと向かった。
金橋駅から徒歩20分ほどに、宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)はある。この神社が祀る曾我都比古神と曾我都比売神で、その神名や、近世における神社の異称が「入鹿宮」であることなどから、この2座は丁未の乱で有名な豪族蘇我氏の氏神とされている。そのため、この神社が所在する奈良県橿原市曽我町のあたりが蘇我氏の根拠地なのではないか、とする説が有力である。境内には特筆するような点はなく、古代から続く神社としては一般的な規模であるとの印象を受けた。ちなみに、最寄り駅である真菅駅の「菅」は「蘇我」が変化したものだと言われている。
宗我坐宗我都比古神社を参拝した後は、真菅駅から橿原神宮前駅へと移動する予定だったのだが、予定していた電車に乗り損ねてしまった。なので、あらかじめ購入していた朝食にありつきつつ、次の列車を待つことにした。
予定より20分ほど遅れて橿原神宮前駅に到着し、徒歩で橿原神宮へ向かう。橿原神宮は神武天皇即位2600年を記念して、神武天皇が政を執った畝傍橿原宮の跡地に創建された神社で、祭神は神武天皇とその皇后媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)である。境内は無駄に広く、どちらかと言えば東大寺を思わせるような作りとなっていた。こちらも特筆すべき点はないが、末社である長山稲荷社では手水舎にセンサーが設置されており、手水舎前に人が立てば自動で水が流れるのは興味深かった。
橿原神宮を発ち、近鉄を経由して等彌神社へ足を向けた。この神社は、神武天皇が皇祖神すなわち天照大御神を鳥見山へと祭祀したことが由緒とされ、平安時代に編纂された『延喜式神名帳』にも記載のある神社である。古くより鎮座地は鳥見山だったが、土砂崩れによって山麓へと社殿を移したという。山麓であるためか境内は緑が多く、神聖な雰囲気を生み出していた。
徒歩で三輪駅に行き、付近の蕎麦屋で昼食をとった後、大神神社を参拝した。大神神社は「三輪明神」として厚い信仰を受けており、記紀にその起源が記述される、古式ゆかしい神社である。祭神は大物主神で、付近の箸墓古墳に埋葬される倭迹迹日百襲姫が妻となったことでも知られる。境内には多くの建造物があったが、なかでも拝殿は金と黒の装飾をあしらいながらも清楚な佇まいを忘れない、大変自分好みであった。境内を散策していると、「山の辺の道」という奈良盆地周辺を周遊するハイキングコースの存在を知り、ちょうど目的地とも合致していたので、つぎの檜原神社へはそれを利用することにした。
檜原神社へは貴船神社、狭井神社などの神社に立ち寄りながら向かった。檜原神社は「元伊勢」といわれる、こちらも古式ゆかしい神社である。この「元伊勢」というのは、神宮が倭姫命や豊鍬入姫命によって現在の地におかれる前の鎮座地であることに由来し、そのため、主祭神は天照大御神であることはもちろん、配神として豊鍬入姫命が祀られている。
倭迹迹日百襲姫が祭神である神御前神社を参拝しつつ、箸墓古墳を見にいった。この古墳は宮内庁によってその被葬者を倭迹迹日百襲姫に治定されており、また、考古学的観点からは古墳の特徴から卑弥呼墓と比定されている。ここから倭迹迹日百襲姫=卑弥呼というのは現在では定説となりつつあり、実際の初代天皇が崇神天皇であるという説も導かれている。
途中、国津神社という神社を参拝した。この神社の祭神は天照大御神と素戔嗚神が誓約によって生んだ8柱のうち、男神である5柱を祀っている。この神社は纏向川の傍にあるが、川の下流に残りの3柱を祀る神社があることから、纏向川を誓約に登場する川に見立てているとされ、神話を再現しようと試みた古代の人の信心に感服した。また、国津神社の裏手にはホケノ山古墳という古墳があるが、地元ではこの古墳に豊鍬入姫命が埋葬されていると伝えられているという記述があり、興味深かった。
最後に、穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)を参拝した。この神社は倭姫命(あるいは景行天皇)によって鎮座したと伝えられており、神社によると祭神は御食津神であるというが、実際は定かにはなっていない。昔は同質の神社が巻向山山中に2社あったが、どちらも焼失したため、この神社には三つの社がある。また、参拝しようとしたところ、手水舎の水底に土砂がたまっていたので、清めるのはあきらめた。
その後巻向駅へと歩いてゆき、JRで京都駅へと帰還した。ホテル到着は1830過ぎ、総歩行距離は14kmであった。

2017年度春旅行 1日目

小川班/桑名
ムーンライトながら下車後、東海道線に乗り換えて7時30分ごろ桑名駅に到着。
朝食を済ませ9時ごろに六華苑に向かう。
六華苑は、不動産業・林業で財を成した諸戸家の邸宅であり、お雇い外国人ジョサイア・コンドルの設計である。空色の外壁と4階建ての塔屋が特徴的であった。
その後ガイドの方の話を聴いてから、揖斐川沿いに九華公園に向かった。此処は、桑名城跡ではあるものの、殆ど痕跡が残っておらず、普通の公園と変わらない状態だった。
九華公園を後にし、最後に石取会館に向かった。地元に伝わる石取祭について解説がしてあったが、規模が小さく見学にさほど時間を要さなかった。
電車の遅延や、悪天候もあり、京都市内観光は取りやめた。

須山班/京都
まず、等持院に行く。ここは庭園のみ。椿が印象的であった。尊氏の墓を見る。
次に、龍安寺へ。やはり石庭が印象に残るが、個人的には庭園の池に映った花(何かは知らない)が良かった。
次に、轉法輪寺に行く。ここでは大涅槃図が特別展示中であったが、その隣に展示してあった初代の布の裏(農民が唱えたものが書かれていた)。
次に、仁和寺に行く。仁和寺はマジで最高。襖絵が他にはあまり見られないようなものが多く、また石庭と池のコンビネーションが特に良かった。
次に、妙心寺に行く。ここでは自由行動。石倉と共に明智風呂、雲龍図の解説を聞く。関係ないが、ゆく年くる年の最初の鐘で、兼好法師も詠んだとされるものがあった。
嵐山へ。宝厳院に行く。苔と石のコンビネーションが非常にキレイだった。
天龍寺は自由行動。雨に降られる。

松野下班/伊勢
ながらを下車し、30分後の列車を待ったのだが、班員2名が誤って大垣ダッシュしてしまい、早くも脱落。同じ列車に乗車予定の小川班とまったり待つことにした。
名古屋駅で小川班と別れ、予定通り伊勢市駅に到着。コインロッカーに荷物を預けて豊受大神宮へと向かった。平日だからか参拝客はまばらで、さらに言えば無作法が目につく者ばかりであった。自分たちはああなるまい、と後輩に作法を教えながら参拝を済ませ、時計を見ると予定よりも幾分か早い時間だった。
このまま行けば他の場所にも行けるのでは?などと画策するも、焦らないように気をつけて皇大神宮を参拝した。こちらの参拝客を見ると作法をある程度身につけている者が多く、近年の神社仏閣ブームによって人々の意識が変わりつつあるのかと思い、少し嬉しく思った。
皇大神宮をあとにし、おはらい町通り伝いにおかげ横丁を目指す。前回来たときは人でごった返していたが、平日であるおかげか人は少なく、けれども喧騒が心地よい程度の混み具合だった。伊勢うどんの名店「ふくすけ」でめいめいの昼食を取った後、時間に余裕があったのでしばしの自由時間へと移行した。班長含め皆がお土産を購入し終えたところで集合し、次の目的地へと向かった。
猿田彦神社、宇治山田神社、月讀宮、倭姫宮と予定通りにめぐり、朝熊神社へとゆくことにした。倭姫宮から朝熊神社に至る途中、名状しがたい紋様を纏った猫に出会った(後の調べで、錆猫という種類の模様であることが判明)。やけに人馴れしており、こちらの動きに合わせた行動をするかと思えば、一定距離離れるともとの場所に戻ってしまう。定位置なのだろうか。尾がやたらと短いことから、交通事故に巻き込まれたのではと班員は分析するが、真偽の程は定かでない。
また、班員の疲労度が上がって来たため、途中の和菓子屋で休息を取ることにした。店員さんと少々談笑しつつの小休止は、疲労を回復させてくれたようだ。
朝熊神社を参拝して伊勢市駅に戻り、しばしの待機を経て帰路についた。ホテル到着は1830頃であったろう。JR線よりも近鉄のほうが便利であることに気づいた一日目だ。

2017年度冬旅行 5日目

岸本班/金沢
暴風雨のなか尾山神社に行き、御神籤を引くと大吉だった。
その後、金沢蓄音機館、泉鏡花記念館を見学後西茶屋に行って、飯を食い電車に乗り、名古屋へ

松浦班/岐阜
当初の予定を変更し岐阜に向かった。金沢から特急で岐阜に向かう予定だったが、強風によるダイヤ乱れと判断ミスにより一時間の遅れと2000円程度の損害を伴って岐阜に到着した。昼食をとった後バスで岐阜市歴史博物館に行き見学した。決して広くはなかったが充実した展示だった。
見学後は徒歩で長良川温泉に移動し入浴、休館日だったうかいミュージアムのカワウを眺めて川原町の街並みを歩いていたところ、雨が激しく降り始めたので退散した。名古屋駅には6時頃に到着した。

2017年度冬旅行 4日目

小川班/輪島
7時15分に出発。高速バスに乗って10時頃輪島に到着。まずは輪島キリコ会館に向かった。
この地のキリコとは切子灯籠のことを指し、祭りの際に担いで街を練り歩くらしい。係の人が親切にしてくださった。
次に工房長屋に向かい、ついで永井豪記念館にいった。原画などが飾ってあった。
その後輪島塗会館にいった。輪島塗の工程や作品について解説していた。時間がきたのでバスで上時国家に向かった。
この地の大地主であった時国家が江戸時代に28年間かけて建てたこの家は、折上格天井や金唐革紙を使うなど、非常に格式の高い家であった。また、音声ガイドやホームページなど、観光に力を入れていると感じた。
その後バスを乗り継いで金沢に向かった。
到着は18時ごろか。

島本班/福井・一乗谷
ます初めに、7時54分の福井行きの電車に乗って、9時25分に福井駅に降り立った。その際、青春18切符が残り2日分しかなかった僕は、PASMOで行ったのだが、なんということでしょう。福井駅はICカードが対応していなかったのです。まあそれはおいといて、福井駅についた後は、観光案内所へと行き、事前に調べたものよりもお得かつ、分かりやすい情報を得た。
そしてバスに乗ってまず初めに、福井県立歴史博物館に行った。そこでは、何故か展示が昭和から始まっており、非常に見難かった。内容の方はと言うと、福井県の全体の歴史について。笏谷石という石が福井を発展させたらしい。他にも、昭和の街並みを再現した展示もあった。
ここを出た後、再びバスに乗って今度は福井市立郷土博物館とそこの隣の養浩園に行った。庭から見たのだが、この庭は素晴らしかった。
そして、この建物に入ってリラックスをしていたら、唐突に強力な雨が降ってきたため、20分ぐらい余計に滞在していた。雨が弱まってきた頃に、隣の博物館へと行った。博物館は県立と違って量は劣るものの、被ってもいなければ、わかりやすくて素晴らしかった。あと無駄に凝ったゲームもあった。あれはレベル高かったな。その後、歩いて福井駅へと戻り、事前にコンビニで買っていた、昼食を各々食べた。そして、一乗谷朝倉氏遺跡というところに向かおうと、バス停にて待っていたのだが、直前にバス停を間違えていることに気づき、慌てて本物へと向かい、結果的に乗ることができた。
そこからまず、朝倉資料館に行き、朝倉氏遺跡について見た。この遺跡は400年もの間、ずっと土?に埋まってそのほとんどを保存していた。また、ここからは日本最古の将棋の駒が見つかっている。この将棋のルールは、今の将棋とほとんど同じだったが、酸象という駒があった。これを裏返すと、王と同等の力を持つ「太子」となって、王が捕られてもそのまま続行するらしい。
この資料館を見終わった後は、復原された城下町へと行った。この「復原」は、発掘したものから推定し、元の状態に戻すための修理であり、そのため間取り、奥行きといったものが再現されている。しかし、高さは分からなかったために、適当であるらしい。結構長かった。その後、交通機関を経て、金沢へと帰った。到着は6時50ぐらい。
*補足
笏谷石(越前青石)
足羽山から産出する火山礫凝灰岩。
めっちゃよく採れるから、古墳時代には豪族の石棺などに、戦国時代には朝倉氏が石屋大工を保護したことによって、石塔、石仏、暖房具や調理器具などが作られ、人々の生活に使われた。また、日本海側の至る所で分布が確認されており、このことから北前船の交易としての性格を持っていたことが分かる。

川崎班/金沢・内灘
10時ごろに金沢城に到着し一時間ほど見学した。高度な木造建築の技法や、海鼠壁の作り方、修復や城主の歴史について説明されていた。
11時ごろにすぐ隣の兼六園に向かい団子を食べた。12:30くらいまで、松の雪吊りなどを見学した後、徒歩で東茶屋街に向かいうどんを食べた。
そのあと抹茶と和菓子を別の店で食した。近江町市場に向かう予定だったが、そのまま北鉄金沢駅に向かい、北鉄で内灘駅まで行った。日本海を見るために内灘海岸をあるき、近くの温泉「ゆらら」に入浴した。
その後再び北鉄で内灘から北鉄金沢まで戻り、宿に戻った。到着は18:10ごろ。

岸本班/金沢
宿の女将さんにレンタサイクル手続きをして貰い、金沢城、兼六園、石川県立伝統工芸館へ、近江町食堂に寄って美味しい海鮮丼を頂いた後、県立博物館、石川護国神社、足軽資料館、武家屋敷野村家など見学後、東茶屋街で忍者寺を見ようとするも入館料1000円で断念、帰還した。

2017年度冬旅行 3日目

小川班/新潟
8時30分過ぎに宿を出発。班員に出発時刻を伝えていなかった。
バスの時刻も調べていなかったので、須山のリサーチに頼っていった。
北方文化博物館に向かったが、しまっていたので斎藤家別邸を見学した。天候が良く庭園を見ることができた。その後風の館を訪ねた。その後カトリック新潟教会に向かったが、ミサのため入れず、新潟駅に戻った。
到着は19時50分ごろか。

杉山班/金沢
新潟を8時半頃に出発して金沢に16時過ぎに到着。
旅館に荷物を預けた後、30分ほど歩いて金沢蓄音器館へ。溝と音波の関係やラッパによる響き方の違いなどがよく分かる展示でなかなか面白かった。
その後10分ほど歩いてひがし茶屋街へ。残念ながら金箔や皿に興味があまりなかったので、街並みの雰囲気だけ楽しんで旅館に帰る。
到着は18時前後

樋口班/糸魚川
0740の電車で新潟を出て1300過ぎに糸魚川駅到着、そこから歩いてフォッサマグナミュージアムへ。Googleマップの指示にしたがって歩いていたところヤベェ道に入り、合宿用の重いリュックサックとかスーツケースを持ったまま雪深いなか、倒木の下をくぐったり道じゃないとこを登ったりした。スーツケース持って登山どころかスーツケース持って遭難するはめになった。
フォッサマグナミュージアムについたところ職員が一時間に一本バスが通っていることを教えてくれ、また歩いてここまで来た人は初めて見たと驚いていた。フォッサマグナミュージアムはよく考えられていて金がかけられた非常に充実した展示だった。
その後隣接する長者ヶ原考古館に行った。客が他にいなかったので職員の方の非常に詳しい説明が聞けた。
1540のバスに乗って糸魚川駅に戻り、駅構内にある糸魚川ジオステーション・ジオパルに立ち寄った。糸魚川を走っていたキハ52や巨大ジオラマ模型が展示されていた。1655発の電車に乗りホテル到着1940。

岸本班/新潟
移動日なので時間が無かったが、さっと、ふるさと資料館、倶利伽羅峠埴生口などを見学、木曾義仲の銅像などがあった
観光案内所のおばちゃんの温情に助けられ、スーツケース登山せずにすんだのでホワイト班になりました。

曹班/富山
朝7:37発の特急に乗って直江津、泊を経由して富山に行った。12:01に富山に着いて、コインロッカーに荷物を預けた後、昼食を食べに行った。僕はラーメンを食べたが、塩が多すぎて、午後ずっと喉が渇いていた。ちなみにそのラーメン屋は富山で一番古いらしい。
路面電車の環状線に乗り、国際会議場で降りて、富山城に行った。城は思ったより小さくかつ現代的で、築城時から残っているのは一つの門だけらしい。城内の郷土資料館を見学しようとしたら、班員の猛烈な反対にあい、断念せざるを得なくなったので、その隣の庭園を暫く散策した。
その後、800mほど歩いて、ガラス美術館に向かった。富山市立中央図書館と併設されており、非常に立派だった。まず3、2階の特別展を見て、それから4、6階の常設展をまわった。瓶やグラスなどから、鉛筆、海藻などの形をした不思議なガラス作品まであり、非常に興味深かった。然し、椅子が多いせいか、班員が椅子を見つけた瞬間張り付いてしまい、休憩を4、5回取ってしまった。
ショッピングモール内のカフェでアイスを食べた後、市役所の展望台に向かった。70mの割にはかなり遠くまで見渡せ、能登半島も見えた。
市役所展望台の見学後、時間があったので、近くにある富山市立教育記念館に向かった。中には県の高校生がコンクールに出したロボットが展示されており、特に体験コーナーは非常に楽しかったまた、富山県出身のノーベル賞受賞者についての展示があり、面白かった。
駅まで歩いて、金沢まで行った。(17:44着)
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